『カーリング今はもう』
5/5
<< 前へ | 目次 | 次へ >> |
夏希は杏を連れて大会1日目を見にいった。第1シードにしてもらったので今日は対戦がない。前原ペアは明日から登場だ。
参加チームが多いだけに会場は混雑していた。田舎町のただの小さな親子カーリング大会なのにすごい熱気だ。
観客席もほぼうまっていた。夏希も子供のころ出たことがある大会だけど、当時はここまで観客席に人はいなかった。暇な人がたまに見に来ているぐらいのものだった。
観客席の奥のフリースペースにもたくさんの人が集まっていた。何をやっているのかのぞいてみると、夏希の提供した2本のサイン入りブラシが飾ってあった。その前で記念撮影をしている人がたくさんいた。
ブラシはガラスケースの中に収められていて、その背後には夏希の大きな写真が飾られていた。4年前のオリンピックのときの写真だ。前方を鋭く見据えながら右手に握ったストーンを投げようとしている前原夏希。
あらためて見ると4年前の自分はずいぶん痩せていたのだなと気づかされた。首が細い。少女マンガに出てきそうな細さだ。10kgどころか20kgぐらい太ってしまったのではないだろうか。
「わたしもブラシの前で写真を撮りたい」
杏がいった。いさめたが聞かない。自分も撮るといってゴネはじめた。
仕方がないので順番を待って撮ってあげることにした。
ブラシの前に立つと杏はスイープするときの格好をした。夏希はスマホを構えてその姿を撮ってあげた。
なるべく顔を伏せるようにして撮ったが、みんな前原夏希の存在に気づいているようで小さな笑い声がほうぼうから漏れ聞こえた。
撮影が済むとなぜか周りから拍手がおきた。恥ずかしいので夏希は杏の手を引いて観客席へ向かった。
ちょうど知恵美ペアの試合がはじまるところだった。
スコアボードには山坂ペアの文字が。もう知恵美は八木知恵美ではないのだ。
来るときは雪が少し降っていたけど帰るときには止んでいた。星もたくさん出ていた。
「ワタシたちあした圭吾くんのチームと対戦するの?」
「そうだよ」
「圭吾くんたち強かったね。10対0で勝っちゃったよ」
知恵美ペアは圧勝した。相手は途中でギブアップして早々に試合は終わった。1点もとれず、為す術がない感じだった。
知恵美の恐ろしさを久しぶりに見せられた気分だった。まったく衰えが感じられない。12年前の知恵美のままだ。それどころか、まるで小学校時代の知恵美ではないか。みんなより頭ひとつどころか、ふたつもみっつも抜けた存在で、ひとりだけ別格だった八木知恵美。
負けて恥をさらすぐらいなら棄権して東京に帰ってしまおうか。風邪をひいたとか何とかいって。
「圭吾くんって学校でもすごくモテるんだよ」
杏が自慢でもするかのように言った。学年は圭吾のほうがひとつ上だが、たぶん目立つ子だから杏もよく知っているのだろう。
「そんなにモテモテ?」
「モッテモテだね。わたしも圭吾くんと目が合うとズキューンってちょっとなっちゃう」
「何、ズキューンって。まさか杏、圭吾くんのこと好きなの?」
「わからないけどズキューンってなる。でも同じクラスの小次郎くんと目が合ったときのほうがズキューンってなる」
「そっちだな、杏の本命ズキューンは」
「そうかな。でも小次郎くんのお父さんって頭がハゲてるんだよね」
「お父さんって歳いくつ?」
「お母さんと同じぐらい」
「それヤバいな。35歳でハゲてたら厳しいよ。小次郎くんも将来絶対ハゲるよ」
「ハゲは嫌だな」
「ハゲろうくんの生え際はもはや風前の灯火かも」
「だよね。やっぱりハゲろうくんはやめておこう。圭吾くんがいいな」
「明日勝ったら圭吾くんのハートを射止めることが出来るかもしれないよ。負けた悔しさがズキューンと愛に変わったりして」
「勝てるかな?」
杏が聞いた。夏希は上空を見上げた。顔を上に向けたせいで自然と歩みが遅くなり、やがて足は自然に止まった。杏もそれに合わせて足を止めた。
「あした勝てるかな?」
杏がもう一度同じことを聞いた。目の前に広がっている大雪原の上空にはたくさんの星が光っていた。こんな景色が広がっている町は世界中でここだけのように思えた。
試合は明日だ。どうなるにしろ東京へ帰るときが迫っていた。
昨日とは違い試合に使用されるレーンは6レーンのうちの4レーンだけになっていた。残りのレーンには特設の臨時観客席が設置されていた。
それでも席はすべてうまっており、立ち見まで出ているような状態だった。歓声がすごくて、隣にいる杏に話しかけるときも顔を寄せないといけないぐらいだ。
町のカーリング場がこんなにも大混雑しているのを見るのは初めてだ。1日目とは比べ物にならないほどの熱気だった。会場の外にも入れない人がたくさん出ているらしい。
混乱を避けるためか夏希たちの試合だけが単独で行われるようになっていた。他のレーンに選手の姿はなく、あとから時間をずらして試合を行うようだ。
会場に入場してから杏が落ち着かない様子を見せていた。雰囲気に少しのまれているのだろう。
臨時観覧席のほうに目をやると姉の姿が見えた。姉は近所の人と一緒に見に来たようで、ふたりでお菓子を分け合って食べていた。
「杏、ほら見てみ。姉ちゃんが何か美味しそうなもの食べてる」
夏希は臨時観客席のほうを指さした。姉はこちらの視線に気づいたようで、ポッキーを手にしたまま立ち上がって手を振った。杏はその姿に笑いながら手を振り返した。
「ハゲろうくんは来てる?」
「来てた。来てた。さっきあそこに座って・・・」
杏は観客席を指差そうとしたけど小次郎くんを見つけられないようで、しばらく目で探していた。
夏希もいっしょになって観客席を探すと、生え際がM字に後退した30代の男性を見つけた。そのとなりには杏と同じぐらいの歳の男の子が座っている。あれが小次郎くんだろう。
知恵美のほうを確認してみると、ふたりは緊張しているようには見えなかった。普段どおりの感じでウォーミングアップをしている。
昨日ひとつ試合をこなしたからだろうか。圭吾の落ちつき払った感じはとても小学4年生とは思えない。いい選手になりそうだ。
係員から試合開始の声がかかった。
夏希はストーンを握った。最初に投げるのが自分だ。
ざわついていた客席が静かになった。夏希の1投目に会場内の目が集まっている。
夏希は足を踏み出しストーンを投げた。うまく回転を制御したつもりだったがストーンが早めにカーブしはじめた。
「ヤップ!」
夏希はすぐに合図を送った。それを聞いた杏がブラシで氷をこすりはじめた。
ダメだ。曲がっていく。杏は懸命にスイープを続けた。
自分もスイープを加勢しようかと考えたがもう遅かった。ストーンはもう追いつけないぐらいの位置まで行ってしまっている。
ストーンはハウスにちょっとかかるあたりで止まった。円の中心からはかなり遠い。もう少し近い位置に置きたかったのだが。
夏希は氷の上を滑って杏のところに向かった。入れ替わるようにしてこっちに滑ってくる知恵美と途中ですれ違った。すれ違いざま一瞬だけ知恵美と目が合った。
夏希は杏の横に並んで知恵美の1投目を見守った。客席はさっき夏希が投げたときよりは集中が途切れたみたいで、少しざわつきが戻っていた。しかし知恵美が投球動作に入ると急に静まり返った。
まるで大きな公式戦のような雰囲気だ。
知恵美は昔と変わらずきれいなフォームでストーンを投げた。手元にスマホがあれば録画ボタンを押して動画を撮りたいぐらいだった。ストーンの正しい投げ方として教材になりそうな理想的なフォームだ。
ストーンもきれいに滑っていく。ヤップの合図がかからない。スイープの必要がない完璧なラインどりだ。
知恵美のストーンは夏希が本来置きたかった場所でピタリと止まった。観客席からも拍手が起きた。もし夏希もただの観客だったら思わず手を叩いていただろう。それぐらい見事な1投だった。
「圭吾くんのお母さんすごい」
杏は観客と同じように無邪気に拍手を送っていた。あそこにストーンを置かれることがどれだけウチのチームにとって厳しいかわかっていないようだ。
次に投げたのは杏だった。しかし緊張もあってかストーンはまったく的外れなところに行ってしまった。夏希もひどかったが杏もかなりひどい。
それに対して次に投げた圭吾はほぼ完璧なショットをみせた。知恵美は途中でちょっとだけスイープしたが、その必要がないとすぐに判断して掃くのをやめた。圭吾のストーンはさっき知恵美の投げたストーンに重なるようにピタッと止まった。
母親につづいて息子も大きな拍手を浴びた。親子そろってほぼ完璧な1投目だ。
その後それぞれ順番にストーンを投げていき、各チーム5投ずつを投げ終えた。第1エンドは完敗だった。いきなり知恵美チームに3点を取られてしまった。
1回戦を10-0で勝ってきただけのことはある。
試合は知恵美チームのペースで進んでいった。得点が全然奪えない。一方的といっていいような展開になっていた。
しかし試合の中盤で待望の初得点を奪った。しかもいっきに2点。杏が3投目と4投目でいいショットを決めた。ずっと安定感のない杏だったけど、ここにきて鋭く回り込んでくるカムアラウンドを2回連続で決めた。
たしかに投げ方を何度も何度も教えたけど、まさか一番大事なところで成功させるとは。
まるでオリンピック選手が投げそうな鋭いカールに一瞬会場が静まりかえり、智恵美と圭吾も驚愕の表情を見せた。
前原チームに待望の得点が入ると会場は大きな歓声に包まれた。杏は嬉しかったようで夏希に飛びついてきた。
「やったよ。点が入ったよ!」
「杏のショットが効いたね。あれで知恵美が困ってしまった」
「うまく回り込んだでしょ」
「文句なしだね。ガードストーンの後ろに完璧に隠すことができたから」
夏希は杏を力強く抱きしめた。ふたりでそのまま踊り出したい気分だった。ずっと押されていた中でやっと取れた点だ。しかも複数得点だけにこれは大きい。
「杏がんばれ!」
会場から姉の大きな声が聞こえた。杏は飛び跳ねながらそちらに向かって両手で手を振った。それを真似して夏希も杏に寄り添ってジャンプしながら姉に両手を振った。
「ここから逆転するよ」
夏希は杏のお尻を叩いて気合を入れた。
しかし、まぐれは続かなかった。その後はまたずっと知恵美ペアのペースになってしまった。
杏もダメだったけど夏希もひどかった。狙ったところにどうしてもストーンが行かない。エンドが進むにつれて点差はどんどん引き離されていった。
やがてスコアは8-2にまで開いてしまった。もう追いつける可能性はほぼない。敗色が濃厚だった。もうここでギブアップして試合を終わらせる選択もあった。
「どうしよう夏希ちゃん。負けそうだよ」
「そうだね」
負けそうというか、限りなく負けに近いというか、もう負けたというか。
「ギブアップする?」
「しない」
夏希は即答した。
「やるぞ杏」
夏希はストーンのところへ向かった。杏も後ろからついてきた。
そうやってゲームを続行したが、やはり夏希にしても杏にしてもショットがダメだった。それとは対照的に知恵美と圭吾は狙ったところにストーンをズバズバ置いてきた。
まったく手加減してくれる気配がない。
もうこのエンドも夏希の最後の1投を残すだけとなった。ハウスの中にあるストーンは知恵美ペアのものばかりだ。夏希たちのストーンは全部知恵美と圭吾に弾き出されてしまった。
この最後の1投を決めないと負けが確定して試合は終了となる。最終エンドを前にしながらの試合終了だ。しかしもしこのラストショットが決まって1点を取ることができたら、まだ試合は終わらない。次の最終エンドを戦うことができる。
しかしその1点が難しかった。ハウス内は知恵美ペアのストーンだらけだ。絶体絶命ともいえる状況だ。
1点を取るためにはこの最後の1投を円の中心にピタリと止めないといけない。ちょっとでもズレるともうダメだ。円の中心のすぐ近くには知恵美の投げたストーンがある。あれのせいで負けが確定してしまう。
「点が取れないとワタシたちの負け?」
「そう。負けが決まってしまう。でも1点取れたらあともう1エンドできる。最後までやれる」
「点取れそう?」
杏は心配そうな顔を見せた。ハウス内は知恵美たちのストーンだらけだ。
「かなり難しいかも」
円のほぼ中心で止まってくれないといけない非常に難しいドローショットだった。4年前の前原夏希でもお手上げのような状況だ。
でもやるしかなかった。なんとかして1点取るのだ。こんなところでコールド負けするわけにはいかない。
夏希はストーンを握って蹴り台に足をかけ、40メートル先のハウスに視線を送った。
「夏希ちゃん、右手で投げるの?」
杏が突然そんなことを言った。
「え、なんで?」
「だって・・・」
杏に指をさされてはじめて自分が右手でストーンを握っていることに気がついた。
杏は不思議そうな表情を浮かべながら、その光景を見下ろしていた。
夏希も自分の右腕を見つめた。まるで自分の右腕ではないように思えた。意思を持った生き物が勝手にストーンをつかんでいるようだった。
しかし何度も見たことのある自然な光景に思えた。忘れようがない自然な光景。顔を上げて周囲を見渡してみると、あたりにも見おぼえのある景色が広がっていた。40メートル先のハウスのあたりには投げられたストーンが散らばっていて、そのそばには智恵美が立っている姿も見えた。
すべてがよく知っている自然な景色に感じられた。観客席から聞こえる声援も、観客たちの姿も、いつかどこかで見たことがある馴染み深いものに思えた。
夏希は視線を手もとに戻し、ストーンを握る右手をじっと見つめた。右手が何かを喋りだすのではないかとさえ思え、静かに耳をすませた。何も聞こえてはこなかったが、そのまま音に気持ちを集中させていた。
聞こえてきたのは心臓の鼓動だった。息を吸ったり吐いたりする呼吸の音だった。何かが溢れ出してくる声も聞こえた。
どんどん大きくなっていった。心臓が鼓動し、肺が酸素を取り込み、少しずつ何かが溢れ出し。
際限なく大きくなっていくので一度止めようとしたが、自分でどうにか出来るものではなかった。どうすることも出来ないまま耳をすませているしかなかった。そのまま音に身をゆだねていると意識が遠のいたようになり、いま自分は気を失っているのではないかとさえ疑ってしまった。
しかし今自分がカーリング場にいることだけは鮮明に認識できた。目の前に広がる光景は疑いようもないぐらい本物で、いま自分は間違いなく右手でストーンを握りしめていた。
夏希は足元の床に目を落とした。ざらつく氷の表面を少しのあいだ眺めた。それから顔を起こして杏の方を向いた。
「右手で投げる」
夏希は伝えた。杏は半開きにした唇を閉じ、黙って夏希を見つめ返した。
杏は何か言おうとして口を開きかけた。しかし結局なにも言葉は出てこず、ただ小さく頷いただけだった。
夏希は左手で投げる用にはめていたシューズカバーをはずして逆の足に付け替えた。
「いくよ杏」
夏希が構えると杏は両手でしっかりとブラシをにぎって横に立った。
夏希は40メートル先の目的地を見据えながら足を蹴り出した。狙うはハウスの中心部分だ。その狭いスペースに投げ入れないと負けが決まる。
ハウスの中は知恵美たちのストーンだらけだ。ハウスの手前にも知恵美の置いた邪魔なガードストーンがひとつある。それらを全部避けながら円のど真ん中に投げ入れないといけない。敵のストーンにちょっとでも当たるとコースが変わってもう円の中心にはいかないだろう。
だんだん視界が狭まるのを感じた。どんどん見えなくなっていく。夏希の目にはもうハウスの中心点しか見えていなかった。他は全部消えてなくなった。知恵美たちのストーンも見えなくなっていた。
見えているのは小さな丸い円だけ。
あの円の中心に投げることを子供の頃からずっと夢見ていた。毎日ここに来て毎日あの場所目がけてストーンを投げつづけた。
何百回、何千回、何万回投げただろう。
ハウスの中心にピタリと止める。単純だけど一番難しいショット。カーリングをはじめた小学生の頃は不可能な行為に思えた。でも天才少女の知恵美は小学生の頃からたまにそれに近いショットを決めていた。まわりの友達や男の子たちに称賛される知恵美の姿が今でも思い出される。
自分もあれが出来るようになりたくて毎日ここへ通った。
もう目指していたのはそれだけだった。ハウスに中心にピタリと止める。それが夏希の夢だった。
夏希の右手からストーンが放たれると観客席から大歓声がわき起こった。
投げた瞬間に短いとわかった。
「ヤーーーーップ!」
夏希は大声で叫びながら立ち上がった。少しぐらついたけどなんとか踏ん張り、すぐにストーンを追った。
杏はブラシで床を全力でこすりはじめた。
「ヤーーーーップ!」
走りながら夏希はもう一度叫んだ。あきらかに短い。このままではハウスの中心どころか、かなり手前で止まってしまう可能性があった。
ストーンがやや左にカーブしはじめていた。自分の狙ったコースからどんどん左へカーブしていく。
夏希はストーンに追いつくと杏と一緒に氷の床を必死に掃いた。
「短いよね?」
スイープしながら杏がたずねた。
「ヤップヤップヤップ。ハウスまで届かないかも」
しかもどんどん左に流れていく。中心からずれていく一方だ。せっかく右手で投げたのにストーンは無情にも少しずつ左へ曲がっていく。
ハウスの手前にあった智恵美のガードストーンに当たりそうになった。しかしギリギリのところでワキをすり抜けかわした。
観客席から大きなどよめきが起こった。
ストーンが伸びはじめている。ふたりがかりのスイープが効果を見せはじめた。ストーンはハウスめがけて滑っていく。観客席がどよめく。海から大きな波が襲ってきたかのように客席が波打つ。
ストーンがハウスの中心に向かって伸びていく。今にも止まりそうな速度だったけどまだ伸びていく。夏希は必死にブラシをこすりつづけたが、右手の感覚はほとんどなかった。左手1本でスイープしている感じだった。でも感覚のない右手もブラシを離さずしっかりと棒の真ん中あたりを握りしめていた。
ストーンがハウスに入ってきた。あと少しだ。
ハウス内に散らばる敵ストーンの間を通り抜けながらまだ伸びていく。
夏希はハウスの中心だけを見ながら氷の床を掃きつづけた。自分の目指した場所がそこにあった。子供の頃からずっと目指してきた場所だ。その場所がすぐそこにあった。
どよめき立つ観客席が静まっていき、やがて声が止まった。ストーンもゆっくりと静かに止まった。
声が止んだ会場内には夏希と杏の荒い息だけが聞こえていた。
ストーンはハウス中心から15cmのところに止まっていた。
しかしNo.2だった。円の中心に一番近いストーンは知恵美の投げたやつだ。夏希のストーンはわずかながら届いていない。
負けた。夏希の全身からゆっくりと力が抜けていった。
知恵美チームに1点が入り、スコアは9-2に。ここで試合終了だ。
杏も隣にきて息を切らせながら2つのストーンを確認していた。負けたことを受け入れられないのか、何度も2つのストーンを見比べている。一度顔を上げて夏希の表情もうかがっていた。
杏はハウスの向こう側に回り込んでそちら側からもストーンの距離を確認した。しかし何度見ても知恵美のストーンのほうが円の中心に近かった。夏希の投げたストーンは中心から左に15cmずれて止まっていた。
負けたことを理解したのか杏の目から涙がこぼれはじめた。
観客席からは勝者を称える拍手が起こった。
「最後すごかったね」
そばに知恵美と圭吾が来ていた。
「止まりそうだったけど最後すごく伸びてきたよね。ハウスの中心まで来るんじゃないかと思って私アセっちゃった」
知恵美は自分のストーンと夏希のストーンを見比べた。夏希も足元に広がる光景にもう一度目を落とした。
2つのストーンの間にあるハウス中心あたりが、天井のライトを反射して一瞬きらりと光った。
杏は両手で顔を覆って泣いていた。知恵美は杏に寄り添い、上体をかがめてまるで母親のように杏の体を支えた。
杏の泣き声はどんどん大きくなっていき、体も小刻みに震えだした。
「なっちゃん顔を上げなよ。お客さんの声援に応えないと」
知恵美は杏の体をさすりながらそう言った。
夏希が顔を上げると歓声が大きくなった。みんな立ち上がって大きな声援と拍手を送ってくれていた。姉が大声を張り上げて夏希を呼んでいるのも聞こえた。
圭吾が夏希のそばに来て手を差し出した。夏希はその手をにぎって試合終了の握手をした。
「最後のあれが決まっていたらスーパーウルトラミラクルショットでしたね。ボクも一回でいいからああいうのを決めてみたいな」
圭吾は微笑み、目を細めた。その感じが知恵美にそっくりだった。
「すごい歓声だね」
知恵美が杏を抱きかかえながら夏希のそばに来た。顔をおおう杏の両手は涙と鼻水でドロドロだった。
「こんな大歓声わたしはじめて聞いたよ。ないでしょ圭吾も?」
「ヒーローの凱旋試合だからね」
「当日来てちょっとだけ参加して帰るのかと思ったら、1ヶ月前から来てずっと練習しているんだもん。わたし笑っちゃった。あいかわらずトコトンやる子だなって」
知恵美が手を出してきた。
「なっちゃんはやっぱりこの町のヒーローだよ」
夏希は知恵美の手を握った。握手を交わした瞬間歓声が最高潮に達した。その声におどろいて杏も一瞬顔を上げた。
「杏ちゃんも中盤でいいショットがあったね。連続で決めたあれはすごく上手だったよ」
知恵美にそう言われると杏の目からはまたもや大きな涙粒がこぼれだし、ふたたび両手で顔を覆ってしまった。
夏希は杏の肩を抱いて会場をあとにした。拍手と声援はずっと鳴り止まなかった。
<< 前へ | 目次 | 次へ >> |
メニュー