面白いストーリーの作り方

『カーリング今はもう』

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カーリング今はもう

第1話 ブラシぐらいくれてやるよ

近いうち銀行口座に300万円が振込まれることになっていた。

300万円で何を買おうか。前原夏希は顔がニヤけてしまいそうになるのを必死におさえながら、司会者の声に耳を傾けていた。

大金が手に入るとわかっていたならこんな安っぽいトークショーの仕事など引き受けなかったのに。

「日本は今回もメダルを取ることが出来るでしょうか?」

司会者が質問をしてきた。客席の視線がいっせいに夏希の方に流れてくる。自分のいない日本代表がメダルなんて獲れるわけないだろと夏希は答えたかった。だけどさすがにその言葉は控えた。

近所のショッピングモールから依頼された安っぽいトークショーではあったが、客が30人ぐらいは集まっていた。下手なことは言わないほうがいい。

「頑張って欲しいですね」

夏希はそう言って無難に濁した。30歳の大人にふさわしいスマートな回答だ。

「今回も日本は絶対にメダルを獲れますよね。そうですよね、みなさん!」

司会者がハツラツ顔で客席に訴えかけた。拍手がパラパラとなった。

そんな簡単にメダルが獲れたら誰も苦労しない。

4年前にカーリング日本女子が銅メダルを獲れたのは自分がいたからだ。スキップとしてチームの作戦を考え、大事なショットは全部自分が決めた。

日本がメダルを獲ったのではない。この前原夏希がメダルを獲ったのだ。夏希にはそういう自負があった。

「冬季オリンピックがもう目前に迫ってきました。先日の壮行試合での日本チームの戦いぶりはいかがだったでしょうか?」

「うーん・・・まあまあかな」

興味がないので観ていないとはさすがに言えない。カーリングは4年前にやめたんだ。興味なんてもう完全に完璧に0%になってしまった。

「前原さんの生活の方はどうですか? 右腕の怪我の影響はまだ残っていますか」

司会者が急に話題を変えて夏希の右腕を見てきた。無意識のうちに夏希は自分の右腕をさすっていた。浮かない顔で右腕をさすっている様子が司会者には気になったようだ。

「大丈夫ですよ。生活にはほとんど支障ありません。最初はお料理するのも大変だったけど、4年も経つので左手中心の生活にもすっかり慣れました」

夏希は右肩を軽く回した。

生活する分にはあまり問題ないが、スマホは左手でさわるようになった。テレビのリモコンも左手だ。そのほうが早く正確にチャンネルを変えられる。

あの交通事故さえなければ自分は今でも日本代表の大エースだった。そしたら今度の冬季オリンピックでも日本はメダルが狙えた。

自分がバカだった。銅メダルを獲って浮かれてしまった。テレビの出演依頼などがたくさん舞い込んで遊びまくった。そのバチが当たったのだ。

テレビで知り合った男と酒を飲んでバイクの後ろに乗せてもらい、転んで腕をやってしまった。軽い骨折ぐらいに考えていたが腕のしびれは治らず、ストーンもまっすぐに投げられなくなってしまった。

夏希は手のひらを開いたり閉じたりしながら右手を見つめた。

カーリングをやめたあとはテレビの仕事がいっさい来なくなった。

仕方がないので私物を売って生活費にあてていた。シューズとかブラシなどのカーリング用品をネットオークションで売るといいお金になった。海外のサイトならとくにいい買い手がついた。

有名選手が使っていた用具は高く売れるようだ。最初に売ったブラシはアメリカ人男性が15万円で買ってくれた。

じゃあオリンピックで使用したものだったらいくらぐらいで売れるのだろう。そう思って練習で使っていたブラシをオリンピックで使用したものだと偽って1回だけ試しに出品してみた。するとそのブラシは25万円で売れた。偽物とは気づかれなかったようだ。

その後も使っていた用具の多くはネットで売ってお金に変えた。でももう在庫切れだ。売るものがもうほとんど残っていない。そのせいで秋頃から財政がピンチを迎えていた。

ここ最近はパチンコで生活費を稼いでいるようなものだった。最近はパチンコ屋に行ってるか家でゲームをしてるかのどちらかだ。

そんな苦しい状況ではあったが、当分パチンコなんぞに行かなくてもよくなりそうないいニュースがあった。近々300万円がもらえるかもしれないのだ。今の夏希には夢のような大金だ。

先月久しぶりにオークションに用具を出品した。オリンピックで本当に使用したブラシだ。お金がないのでもう本物を手放そうと思った。そしてこれがかなり高額な値段で売れそうだった。金持ち同士が競り合ってくれたおかげで現在300万円まで値段があがっている。

そんな値段で買うマニアがいることが夏希には不思議だった。この高額な落札価格をつけたのはカナダの有名なカーリングマニアの人だ。メールで状態の問い合わせが来たので判明した。夏希でも知っているぐらいの有名な人だ。

300万円もあれば1年以上は暮らせる。我慢していたアレとかコレも買えてしまう。こんな安っぽいイベントの仕事も断れるようになるし、パチンコ屋の新台入替にだって当分は並ばなくて済むだろう。

銅メダルを獲ったときの記念のブラシだったけど、ついに手放すときが来てしまったようだ。マニア相手にさすがに偽物ブラシは渡せない。見抜かれてしまう。

夏希はそんなことを考えながら司会者の質問にうわの空で返事をしていた。すると、客席にいるひとりの男性の姿が目にとまった。

夏希は驚きのあまり声をあげそうになった。

「オリンピックで日本が警戒すべき注目選手とかいますか?」

司会者がたずねた。

「前原さん? どうかしましたか?」

「あ、いえ。すみません。えっと何でしたっけ? ああ注目選手ですか」

引退してからの4年間1回もカーリングを見てないので注目選手なんてわからなかった。もうすっかり・すっきり・さっぱりカーリングに興味なんて1ミリもなくなったので、そんなことより300万円の使い道について聞いてください。そう言ってやりたかった。

「やっぱりカナダのエースのあの選手じゃないでしょうかね。いるじゃないですか、ほらあの選手」

返事をしながら夏希はもう一度男性のほうに目をやった。客席の後ろの方にスーツ姿の背の高い男が座っている。清潔感のある短い髪。上品な身なり。そして大きくてきれいな目。間違いない。山坂だ。夏希がずっと想いつづけた人だ。

小中高とずっと好きだった初恋の人が観客席にいた。町の女の子みんなが憧れていた王子様だ。そんな彼が観客席にいて、こちらをじっと見つめている。男性に見つめられるなんて何年ぶりだろうか。

本当に山坂だろうか。だって山坂は北海道にいるはず。ここは東京のゴミゴミしたショッピングモールだ。

似た顔の男が座っているだけではないだろうか。夏希は疑いの気持ちを拭えずもう一度山坂の方にそっと目をやった。すると軽く目が合うかたちになってしまった。

夏希は慌てて目をそらし、絨毯みたいな床に目を落とした。

急に呼吸が苦しくなってきた。自分の足元をよく見ると、あまりいい靴を履いてきてない。服装もラフな格好だ。近所のショッピングモールのトークショーだったので普段着とさほど変わらない服で来てしまった。

後悔の気持ちが胸に広がってきた。もっとちゃんとした服装で来ればよかった。せめてスカートぐらいは履いてこないと。

夏希は司会者の質問に答えながら襟元をそっと正し、背筋もさっきよりまっすぐに伸ばした。身振り手振りを交えて話すフリをしながら自然に頭に手をやって髪も整えた。可能ならば鏡を取り出して化粧も整えたかったが、さすがに無理だ。人前に出るのだからもっとちゃんとした化粧をして来れば良かった。普段と変わらないテキトーメイクで来てしまった。

観客性の方が気になって仕方なくなり、緊張で声が少し震えだした。頭もオーバーヒートしたように熱を持ちはじめ、ちゃんと働かなくなってきた。

もうそれ以降は観客席の方には顔を向けられず、司会者の顔ばかり見ていた。しかしその司会者の声も遠くで響いているかのように現実味を失っていた。

山坂と最後に会ったのは18歳のときのお別れ会のときだ。北海道の小さな町で育った夏希は、高校を卒業すると同時に東京へ旅立った。東京に新しくできたカーリングのチームが夏希を誘ってくれたのだ。

地元チームからの誘いもあったが夏希は東京を選んだ。何にもない退屈な町から出ていきたかった。カーリングだけはやたら盛んな町で、町の中心には無駄に大きなカーリング場がひとつあった。でも町にあるのはそれだけだ。あとは畑と森と大草原だけ。

ショッピングモールもなければパチンコ屋もない。コンビニすらないのだ。そんな町にとどまってなどいたくなかった。

でももし山坂と交際などできていたら夏希は地元に残っていただろう。なんにもない町だったけど山坂がいてくれたらもう何もいらない。

席を途中で立つ買い物客もチラホラいた。山坂も帰ってしまったのではないかと心配になり、夏希はそっと確認した。

いる。山坂はまだ席に座っている。夏希の話を熱心に聞いてくれているようだ。

ずっと憧れていた王子様がなぜ突然東京へやってきたのだろう?

何かとんでもない幸運が自分にめぐって来ているのではないか。300万円はもうすぐ振込まれるし、王子様まで寄ってきてくれたし。

これは何かのごほうびに違いない。

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「びっくりしちゃった。どうしたの山坂くん?」

そう言いながら夏希は山坂に席をすすめた。とは言ってもショッピングモールの吹き抜けにある休憩用の普通のイスだ。他の席は買い物客たちでほとんど埋まっていた。ここだけちょうどふたつ席が空いていた。

「ちょっとスポンサーへのご挨拶で東京に来ていたんだ」

「へー頑張ってるね。お仕事ご苦労さま」

夏希は自動販売機で買った飲み物をひとくち飲んだ。トークショーで1時間ちかく喋ったので喉を潤さねば。

並んで座る夏希と山坂の前を家族連れやカップルが通り過ぎていく。日曜日だけあって店内は大賑わいだ。

「でもすごいね。東京にもスポンサーになってくれる企業があるなんて」

「いやそれがね、実はダメだったんだ。スポンサーになってくれそうな所がひとつあって、それでわざわざ東京まで来たんだけど」

山坂は力なく肩を落とした。

「そう。残念だったね。なかなか大変だもんね。上手くいかないこともあるよ」

姉から聞いた話では山坂は地元のカーリング協会の役員をやっているらしい。大会を運営したり地元チームの活動をサポートしたりしているようだ。

夏希は18歳で上京してから1度も故郷へ帰ったことはなかった。でも姉が地元に住んでいるからいろいろ教えてくれた。

姉の情報では山坂はまだ独身だったはず。

山坂は夏希より2つ年上の32歳だ。昔は爽やかな好青年という感じだったけど、32歳になった山坂は男らしい精悍な顔つきになっていた。許されるならずっと見とれていたいような大人の顔つきだ。

「スポンサーとの契約はうまくいかなかったけど、夏希ちゃんのトークショーが見れたからよかったよ」

「東京に来たかいがあったじゃん」

「あったあった」

「山坂くんのお役に立ててアタシ嬉しい」

夏希が小首をかしげて微笑むと山坂も笑みを見せてくれた。

「たまたま知ったんだ。ホテルに置いてあった新聞の広告欄にここのトークショーのことが出ていて」

「なんというベストタイミング」

たまたまではなく、本当は事前に知っていたのではないかと夏希は一瞬おもった。ショッピングモールのホームページを見たらイベントのことは出ている。それに合わせて出張の日程を組んだのではないだろうか。

もしかしたら夏希が現役だった頃にも山坂は試合をこっそり見に来ていたのではないか。当時は誰が見に来ているかなど気にしたこともなかったけど、実は山坂が何度か来ていたのではないか。

今回も事前にネットで調べて、今日トークショーがあることを知って東京まで来たのではないだろうか。

もしそうだったらいいのに。そうであって欲しい。夏希はその可能性がどれぐらいあるのか考えてみた。

山坂のことはカーリングをはじめた小学生の頃から知っている。カーリングの上手な2歳年上のお兄さんという感じだった。ちょっと指導してもらったこともある。

でもそれだけだ。カーリング場でよく顔を合わせていただけのただのカーリング仲間でしかない。

「夏希ちゃんはこういうイベントの仕事って今でもよくやってるの?」

「まあぼちぼちね」

夏希はほてった脳みそと体を鎮めようと飲み物の残りをいっきに飲み干した。もしトークショーがまたあるなら、山坂はまた見に来てくれるのかもしれない。そうに違いない。そうであって欲しい。

でももうイベント関連の仕事なんて完全になくなっていた。トークショーなんて4年ぶりだ。

もう世間は前原夏希のことなど忘れてしまったのだ。冬季オリンピックがもうすぐ始まるから奇跡的に呼ばれただけだ。先週はフィギュアスケートの選手がトークショーに呼ばれていた。今月はオリンピック月間なのだろう。

司会者の質問の多くはオリンピック関連のことだった。まるでオリンピックの解説者として呼ばれた感じだ。カーリングの基本的なルール解説などもさせられた。

家が近所でよく買い物に来てるから声が掛かっただけだ。3階の本屋でパチンコ雑誌を読んでいるとき職員に声をかけられた。

横目で山坂を見ると、向こうもこっちに目線を送っていた。目と目が合ったので夏希は慌てて目をそらした。

「あの大きなカーリング場まだある?」

夏希はとっさにそんなことを山坂にたずねた。子供の頃から山坂とはカーリングしか接点がなかった。もっとロマンチックな話題を振れたらよかったのだが。

「もちろんあるよ。カーリングだけは盛んな町だからね」

「カーリングだけは何があっても安泰の町だね」

「でも財政がきびしくてね。毎年この時期にやっている親子ダブルスは中止になるかもしれないんだ」

「あの大会中止になるの?」

「景品などを用意するのも大変でね。少子高齢化の影響もあって参加者が年々減っているんだ。ボクたちが出ていた頃の半分ぐらいしか参加希望者がもう集まらない。いくつか大会を閉鎖する話になっているんだけど、親子ダブルスは今その第一候補なんだ」

「そんなことになってたんだね。知らなかった」

夏希も小学生のとき姉と一緒に出たことがある大会だ。

親子でなくても身内とのペアなら出場できる感じの大会だった。どちらかが小学生ならOKという感じだった。だから兄弟ペアや親戚のおばさんと出場するペアなどもあった。

あの頃は参加希望者がたくさんいて、観客席にも人が入っていた。

「出来ることがあれば何でも言ってね。アタシ山坂くんの力になるよ」

「今回東京でスポンサーが獲得できたらまた違ったんだろうけどね。まあ時代の流れかな。みんなに申し訳ないよ。スポンサーとの契約をまとめて来てくれるって期待していただろうから」

「仕方ないよ。山坂くんのせいじゃないよ」

「みんながっかりするだろうなと思うと電話する気になれなくてね。契約がダメだったことをまだ連絡してないんだ。なかなか気持ちの整理がつかないよ。親子ダブルスもこれで中止が決まりそうだし」

山坂は手に持ったスマホをくるくる回転させた。肩を落とし目がうつろだった。夏希はこれほどまでに弱々しい山坂を見たことがなかった。よほどこたえたのだろう。

「アタシのサイン入り色紙を景品にしたらどうかな。参加者が増えるかもしれないよ。山坂くんのためにアタシいっぱい書く。ダメ?」

山坂は少し顔をこちらに向けたがそのまま何かを考えはじめ、返事をしなかった。

「アタシが使ってたブラシならどうかな? サイン入りで・・・・・・あっオリンピックのとき使ったブラシも1本あるよ。どうかな? 優勝賞品にしたら盛り上がるかも」

「オリンピックのブラシ?」

山坂は驚きの表情を見せた。ちょっと言い過ぎたかもしれない。山坂が身を乗り出してきた。

「いいのか? そんな大事なもの」

「いいよ、いいよ、いくつかあるうちの1本だから。あげるよ」

本当は1本しか残っていないし、しかもその1本には300万円の買い手がついていた。だからさすがに本物は渡せない。でも練習などで使用していたボロいやつならまだ1本~2本は残っているので、それを渡そう。似たデザインなのでカーリングマニアでもないかぎり見分けがつかないはずだ。もう言ってしまったものは仕方がない。

「ウチすぐ近くなんだけど、取りに来る?」

「いいの? 夏希ちゃんにとっては大事なものだろ。本当にいいの?」

「いいよ。親子ダブルスが中止になったら悲しいもん」

「ありがとう夏希ちゃん」

「参加者増えるといいね」

「きっと増えるよ。だって夏希ちゃんのブラシが景品だろ。すごく話題になるよ。カーリング人気回復のいいきっかけになるかも」

「今年はとりあえずアタシのブラシでしのいで、来年までにまたスポンサーを見つけようよ。東京に来るときアタシまた山坂くんの力になりたい」

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部屋にあがるようすすめたが山坂は入ろうとはしなかった。ドアの外で待つと言った。

「飛行機の時間もあるし、ゆっくりできないんだ。ごめん」

「お茶ぐらい飲んでいけばいいのに」

「今日中に北海道に戻らないといけないんだ」

「そうなの。忙しいね」

仕方がないので山坂には外で待ってもらうことにして夏希だけ部屋に入った。

もしかしたら泊まっていく展開になるかもしれないという期待感がちょっとだけあったのに。

でも忙しいようなので仕方がない。

そうした真面目な部分も彼らしいなと夏希は思った。昔と変わっていない。節度をわきまえるあたりがまさに夏希のおぼえている山坂だ。

部屋には物が散乱していた。2DKなのだがこちらの部屋は全然使っておらず、ただの物置きみたいになっていた。明かりがついたり消えたりを繰り返していた。近いうち新しい蛍光灯に替えなければ。

部屋の中央にはダンボール箱が積み上げられ、その脇には故障して使わなくなった空気清浄機やパソコンのプリンターが転がっていた。

税金のよくわからない書類とか本なんかも床に散らばっている。それらをなるべく踏まないようにしながら部屋の奥へとそっと進んだ。

一番奥の壁のところに1本のブラシが無造作に転がっていた。

本当はもっとたくさんあったし、シューズやグローブも以前は並んでいた。でもほとんどの物はネットで売り払ってしまった。

夏希は床に転がっていた黒いペンも一緒に拾った。

ペンのフタをとってさっそくブラシに自分のサインを書き入れた。右手がうまく動いてくれず字がかなり曲がってしまった。事故後はまともにサインすることすら出来なくなってしまった。

ひん曲がったサインを夏希はじっと見つめた。突然の再会のせいで変なことを言ってしまったけど仕方がない。これを渡しておこう。

「山坂くんおまたせ」

ブラシを手に玄関を開けた。山坂は手すりの所から東京の景色を眺めていたが、すぐにこちらへ顔を向けた。

「これがオリンピックで使用したブラシなんだね。本当にもらっていいのかな?」

ブラシを手渡すと山坂の表情が少し明るくなった。夏希はもうその顔が見れただけで良かった。

「サインまで入れてくれたんだね、ありがとう」

「字が曲がっちゃってるけどね」

「事故の影響?」

「昔はきれいに書けたんだけど、事故のあとは右手がちゃんと動いてくれなくて」

夏希が顔を伏せて笑うと山坂も少し笑ってくれた。しかしすぐに笑うのをやめて腕時計を確認した。飛行機の時間が迫っているのだろう。

「夏希ちゃん。ありがとう。すごく助かったよ。スポンサーの話がダメになってどうしていいかわからなくなってたのに」

「いいよ気にしなくて」

「もしよかったら親子ダブルス見に来なよ。忙しいかな?」

「うーん・・・」

「無理かな。忙しいよね」

「無理じゃないよ。見にいく」

「本当に?」

夏希はうなずいた。なるべく表情を崩さないようにしたつもりだったが、少しデレっとゆるんでしまったかもしれない。

夏希は山坂をエレベーターの前まで見送った。本当は1階まで見送るつもりだったが山坂がここでいいと言った。

気を使ってくれているのだろう。

エレベーターがきて山坂は乗り込んだ。ドアが閉まるまで夏希はずっと手を振っていた。山坂もこっちをずっと見つめながら手を振り返してくれていた。切ないエンディングの歌でも流れて来そうな甘美な雰囲気に思え、なんだかロマンチックな別れぎわだった。

親子ダブルスを見に行くと約束した。来月また山坂と会えるのだ。

夏希は軽くジャンプしながら部屋に戻っていった。

玄関を開けると物置部屋から電気がついたり消えたりする光が廊下にまでもれていた。消し忘れてしまったようだ。

夏希はドアのそばにあるスイッチに手を伸ばした。電気を消そうと手を動かしたそのとき、夏希はあることに気がついた。部屋の隅に積まれたお歳暮の箱のそばに1本のブラシが転がっている。

見覚えのあるブラシだった。山坂に渡したはずのボロブラシだ。夏希はスイッチに手を伸ばしたままボロブラシにじっと目線を向けていた。急に誰かにリセットボタンを押されでもしたかのようだった。頭の中で動いていたものが全部止まってしまったような錯覚に襲われた。

意味がよくわからなかった。山坂はさっきブラシを手にエレベーターで下へ降りていった。それなのになぜ渡したはずのボロブラシがここに転がっているのだろう?

夏希はボロブラシを拾い上げると、床に散らばる本や書類を踏み散らかしながら部屋の奥へと進んだ。そしてそのあたりに置いてあるはずの300万円のブラシを探した。

このあたりにあるはずなのだ。オリンピックで使ったブラシが。銅メダルを獲ったときのあのブラシがあるはずなのだ。イギリスに勝ったときのあのブラシがここにあるはずなのだ。300万円で買い手がついているブラシがここにあるはずなのだ。

しかし見当たらなかった。あるのはいま手に持っている練習用のボロいブラシだけだ。

夏希は後ろを振り返った。リセットボタンによって切断された回路が急速に復旧しはじめた。同時に頭の中で何度か光が雷のようにスパークした。

夏希は猛然と玄関に向かった。

間違えて渡してしまったのだ。似たデザインのモデルだ。取り違えた。

玄関を出て手すりのところから下をのぞくとマンションの敷地を出たあたりに山坂の後ろ姿が見えた。渡したブラシを手に駅のほうに歩いていく。

「山坂くん!」

夏希は叫んだ。聞こえていないのか山坂はそのまま歩いていく。

「待って山坂くん!!!」

エレベーターのほうへ走りながらもう一度叫んだ。

山坂がとまって振り向いた。夏希は大きく手を振った。

「待って山坂くん! ちょっとそこで待ってて!」

山坂は立ち止まりこちらを見ている。

待ってくれるよう夏希は大きなゼスチャーで示し、あわててエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターはじれったくなるほどゆっくりと降りていった。もし山坂がいなくなっていたらどうしてくれるのだ。

どうすることも出来ず壁にもたれかかると、ズボンの後ろポケットにペンが入ったままだったことに気がついた。夏希はフタをとってボロブラシにサインを入れた。やはり字が曲がってしまう。

エレベーターが下に着くと夏希は猛ダッシュした。久しぶりに全力疾走したせいかすぐに息が苦しくなった。しかし足を止めるわけにはいかない。300万円を追わねば。

マンションの敷地から通りに出て少し走ったところで夏希は一度足をとめた。息が切れてかなり苦しい。心臓発作で死ぬのではないかと心配になるぐらい胸が締め付けられた。

「どうしたの夏希ちゃん」

山坂の声がした。戻ってきてくれたのだ。

「大丈夫?」

「うん・・・だ、大丈夫」

そう言うのが精一杯だった。息がきれるので両手を膝にあてて体を支えた。すぐには体を起こせそうにない。

「あれ、そのブラシ」

山坂は夏希の持ってきたもう1本のブラシに気づいた。

「あっこれはね」

夏希はこっちこそがオリンピックで使用したブラシだと説明しようとした。しかし体を起こすと肺が詰まったような感じになり声がうまく出てこなかった。そのあいだに山坂のほうが先に話しはじめた。

「そのブラシ、夏希ちゃんが練習のとき使っていたやつだろ。テレビで見たことあるよ。練習風景を放送していた番組が昔あったんだ。そのモデルはボクも以前使っていたことがあるんだ」

「えっ」

山坂はボロブラシに書かれたサインに気づいた。

「もしかしてこれも景品でくれるってこと? ダメだよ夏希ちゃん。悪いよ」

「いや、その・・・」

「でもせっかく走って持ってきてくれたんだ。ありがたくもらっておくよ」

夏希は手にしたブラシを取られてしまった。遊んだ両手をどうしていいかわからず右手と左手は宙をさまよった。

「ありがとう夏希ちゃん。2本もブラシをもらっちゃって。きっと大会を成功させてみせるよ。当日は見に来るだろ」

「うん。行くー」

夏希は笑顔を見せた。山坂は力強くうなずき返すと別れを告げて駅へ歩いて行った。

夏希はその姿が見えなくなるまで手を振っていた。息ぎれはおさまってきたが、かわりに心臓の鼓動が激しくなってきた。

300万円のブラシが遠ざかっていく。

どうすればいいのだろう。楽しみにしていた300万円が入ってこなくなるではないか。

それどころか生活していけるかも怪しくなってきた。もう貯金が底を尽きかけている。

このままでは家賃も払えなくなる。食べ物も買えなくなる。

夏希は歩道にしばらく呆然と立ち尽くしていた。

今日一日で起きた出来事が全部夢のように思えた。路上の先に山坂の姿はもう見えない。実は全部幻だったのではないだろうか。

しかしお尻の感触が夏希を現実へと引き戻した。後ろのポケットに入ったペンが現実を知らせている。

夏希はマンションの方へ歩きだした。来るときの1/10ぐらいのスピードの遅い重い足取りだ。

もういっそのことキャバクラ嬢にでもなろうか。ちょうど厚化粧の女性が横を通り過ぎていった。意外といけるかもしれない。知名度を利用すれば人気嬢になれるかも。まき散らされた香水のにおいに少しむせながら夏希は考えてみた。

しかし人付き合いが苦手な自分に客商売なんてできるだろうか。パチンコのほうが確実ではないか。お金を稼ぐならやはり自分の得意としていることだ。スロットの新機種も最近攻略できつつある。

いや違う。夏希はすぐに思いなおした。自分の得意としてることと言えばもう圧倒的にカーリングだ。得意どころか日本で一番うまかったのだ。世界中のカーリング選手が前原夏希を恐れた。オリンピックでも世界の強敵を次々となぎ倒して銅メダルを獲ったのだ。

カーリングであのブラシを取り戻そう。これ以上簡単な方法があるだろうか。

親子ダブルスに自分も出よう。優勝してあのブラシを取り返すのだ。

姉には10歳になるひとり娘がいた。あの子と組んで出場するのだ。身内とのペアなら今でも出られるはずだ。

姪は去年からカーリングをはじめていた。1年ほど前に姉からそういう話を聞かされた。姉の子ならそれなりに上手いはずだ。1年もやっているなら町の小学生の間ではすでにトップクラスになっているかもしれない。

最初はバカげた思いつきにも感じたが、マンションへの道を戻っていくうちにまっとうな作戦のように思えてきた。

大会まで1ヶ月はある。いける。

18歳で田舎町を出る頃にはもう誰も夏希にはかなわなかった。無敵の女王。町はじまって以来のレジェンドだった。

あのバイク事故から4年間カーリングからは離れている。でも1ヶ月間練習したら優勝できるのではないだろうか。右腕がもしダメなら左で投げればいい。

道に落ちていた誰かが捨てた空き缶を夏希は思いきり蹴飛ばした。きれいな弧を描いて缶は空き地の方へ消えていった。

300万円をすでに取り戻すことができたような高揚する気持ちがわきあがってきた。夏希は軽くガッツポーズしながらマンションへ入っていった。

 

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